内田良平翁年譜



明治7(1874)年

2月11日、福岡市大円寺町で内田良五郎の三男として誕生。


明治9(1876)年 3歳

12月3日、秋月の変の領袖今村百八郎が刑場に曳かれる姿を見、生涯不忘の印象を脳裏に刻む。


明治18(1885)年 12歳

叔父・平岡浩太郎宅に於いて、大内源太郎の支那視察報告談を聞き、初めて大陸雄飛の志を抱く。


明治21(1888)年 15歳

平岡家に引き取られ、祖母・天為子の勧めにより武術修業を志す。


明治22(1889)年 16歳

同輩を集め、修養団「青年会」を結成。青年会員の貯金を以て柔術道場を建て「天真館」と命名する。


明治24(1891)年 18歳

平岡浩太郎の経営する豊前赤池炭鉱の売勘場監督となる。


明治25(1892)年 19歳

叔父・平岡浩太郎に伴われ上京。講道館に入門し柔道を学び、東洋語学校に入学してロシア語を学ぶ。


明治27(1849)年 21歳

東学党支援のために同志と共に渡鮮。「天佑侠」を組織し、東学党軍の首領・全琫準と会盟する。


明治28(1895)年 22歳

4月、三国干渉。5月、遼東還付の大詔下る。8月、対露報復の志を抱きロシア情勢の調査のためウラジオストクに渡る。


明治29(1896)年 23歳

1月、福岡へ帰郷。春に再びウラジオストクへ。同地に柔道道場を開設し、柔道指南の傍らロシア情勢の偵察に従事する。


明治30(1897)年 24歳

シベリア横断の壮途に就く。


明治31(1898)年 25歳

ペテルスブルグに入り、広瀬武夫、島川毅三郎、八代六郎の協力を得て欧露の実情を探る。3月下旬

「ロシア怖るるに足らす」の結論を得る。

帰国後、宮崎滔天の紹介により孫文と会う。アジア解放の大局的見地より中華革命と日支共存の方途を論じ意気投合、革命援助を約束する。

平岡浩太郎の意を受け、中野二郎と協力し「東亜同文会」の成立に努力する。

冬、フィリピン独立軍の使節ポンセより独立運動支援の依頼を受ける。


明治33(1900)年 27歳

孫文ら3名と会談、支那に於ける革命情勢(中国秘密結社三派の連合成立と、三派による孫文の推戴)の報告と、挙兵計画に対する援助の依頼を受ける。

富岡金蔵長女・淑栄と結婚。


明治34(1901)年 28歳

2月3日、黒龍會を結成し、その主幹となる。


明治38(1905)年 32歳

7月、赤坂の自宅を会場に孫文・黄興両派の協議会を開く。翌月、「中国革命同盟会」成立。


明治39(1906)年 33歳

10月、一進会々長の李容九と対面。日韓連邦の大事について盟約、一進会の顧問となる。


明治44(1911)年 38歳

10月、武昌で革命の烽火があがり、北輝次郎、清藤幸七郎を南支に派遣。小川平吉、宮崎滔天らと共に、中華革命の支援機関「有隣会」を結成。


大正5(1916)年 43歳

川島浪速と会合し、宗社党を援助する。また、頭山満及び杉山茂丸の委託を受け、英国官憲の追及を受けるインドの独立運動家ラシュ・ビハリ・ボース、ヘラン・ボラール・グブタの両名を匿う。


大正8(1919)年 46歳

国民外交同盟として同憂37団体を包含して「人種的差別撤廃期成同盟」を結成。パリ平和会議に於ける人種的差別撤廃要求を支持。


大正10(1921)年 48歳

2月、在野の各団体有志を発起人として内鮮の融和並びに朝鮮の施政改善を目指す国民団体「同光会」を結成、その幹事長に就任。

5月、京城に「同光会朝鮮総支部」を設置。


大正11(1922)年 49歳

10月、ロシア飢饉の救済運動を行う。「露西亜飢饉の真相」を刊行する。


大正12(1923)年 50歳

9月、関東大震災に遭遇、黒龍會の全力を挙げて罹災民の救恤に奔走。赤坂山王下に「自由宿泊所」と「自由食堂」を開設。


昭和6(1931)年 58歳

6月、大阪中之島公会堂に於いて「大日本生産党結成式」を挙行、自ら総裁の任に就く。


昭和9(1934)年 61歳

「日韓合邦記念塔」を明治神宮表参道神宮橋々畔に建立。


昭和12(1936)年 64歳

7月26日23時50分、アジアの前途を憂いつつ、なお「雲の上の神の御国ぞ渡り鳥心のままに飛び得べきかは」と「神国日本」に対する無限の信頼を絶筆の歌に表白して、永遠の眠りにつく。